白蛇のとおりみち

来た道が消えないように、少し抵抗してみる

災害時のアナログな情報提供の必要性

 夏が近づくのを肌で感じるようになったころから近畿で相次いで起きた甚大な自然災害。大阪北部を震源とする地震と平成も終わりというのに雨でこれだけの被害が出るのかと驚かされた豪雨。この二つの災害を間近で体験した私は、この二つの災害を全く違う立場で見ることになった。

 地震発生時、私は丁度高校へ登校しようと家を出た直後であった。これまで体験したことのない激しい揺れであったので多少焦りつつ、家に飛び戻り二階のテレビにかじりついてスマホSNSや動画サイトを活用して、とにかく多くの情報を得ようとした。幸い身の回りでは被害はなかったのだが、いつまた大きな揺れが来るのかわからない状況で少しでも多くの情報に常に触れて安心していたかったのである。

 このとき困ったのが大阪の、震源のほうへ出勤していた父である。電車に乗っていたところ突然の揺れに襲われ電車は運休し、駅の外で帰宅難民へとなった。父はいまだ従来型の携帯電話しか持っておらず、十分な情報を手にすることができなかったので、私が家から電車やバスの運行情報を電話で伝えることとなった。私は昼頃には父が乗っていた列車の復旧が遅れることに見切りをつけ、バスに乗って川向こうの別路線に乗ることを勧めたのだが、父はすぐに動き出すだろう、さっき一台電車が走っていったからもうすぐだと復旧を待ち続け、結局約14時間後に母に車で送ってもらって帰ってきた。

 その後私は豪雨の時に父に近い立場で災害を体験することとなった。地震から豪雨までの短い期間で私はスマートフォンを壊してしまい、通信手段を持たなかったのである。豪雨の初日、激しい雨音を聞きつつ学校で授業を受ける中、生徒の携帯から別地域に発表された避難指示のアラートが何度も鳴り響いていた。簡単に情報を手にできない私は、数年ぶりの非常に激しい雨の中漠然とした不安に襲われていた。

 こんな短期間で二度も災害が発生し、まったく異なる立場になって、災害時の情報発信、受信の問題の当事者となった。そこで見えてきたのが、情報がもたらす安心と、インターネットに頼った情報発信の課題点である。

 情報にまさか安心をもたらす効果があるとは思いもしなかった。また、父が私の情報を頼りにできなかったことから、情報は現地で、速やかに伝えられる必要があることを痛感した。こんな時には我々学生を含めて伝令として正確な情報をリニアに伝える役割を担うことが必要ではないか。現場に居合わせたときには、当然自分の身の安全を確保したのちに、ネットで得た確度の高い情報や、現場で公開された情報を、声によって拡散することには意外と必要性がある。ネットに慣れている人でさえ、不慮の原因で必要な時に情報にアクセスできないこともあるのだ。

ラーメンと思考論

 世界をだれが作ったのかは誰にもわからないが、社会を作っているのは確かにヒトである。よって社会事象を分析するにあたって、ヒトの思考パターンを把握することは必須だ。ここでいう思考パターンとは、人間の判断に共通して言える、外部から情報を受け取ってから結果や行動を導き出すまでのプロセスのことである。

 なぜこれが最初であるのかというと、パターンを理解していなければものの構造を理解するのは難しいからである。料理をするのに手順を立て物質を理解するのに原子を見つめるように、ものを調べるときの基本は分解である。一つの事象を分解して要素に分けることによって、考えが詰め切れていなかったり問題があったりする部分を絞り込むことができる。いわば、効率的に分析を進めるために設計図を手探りで書き出すのである。

 

 

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 この写真を見てほしい。飯テロだと感じる方もいるだろうが、私自身このラーメンの味を思い出し、腹を空かせている。なぜこの写真を選んだのだろうか。ちなみにこれは京都市山科区麺屋 裕東西線東野駅から南へ300m)の魚介系のラーメンである。色鮮やかなこのラーメンはあっさりとした磯味がとても心地よかった。さらに、口安めに飲む水がうまい。地元の水を使っていて、素人でもわかるこの水の味の違いがラーメンを邪魔せず、引き立て役としてしっかり務めを果たしていた。

 この文までで何人が離脱しただろう。しかし、決して本題から離れたわけではない。以上のように感じたことから、思考の分解を行ってみよう。ここで自分に対する「入力」の役目を果たしたのはラーメンの写真である。また「出力」された情報は、「飯テロ」、「おいしかった」、「ラーメン・水の情報」などである。

 ここでは飯テロに注目してみる。まず、飯テロとは読み手の腹が減っているときに(ラーメン好きにとっては空腹は関係ないかもしれないが)おこる、このラーメンを食べたいという欲求である。これには、食欲を満たしたいという本能的な要素と、ラーメンを味わいたいという、本能とは別の要素が存在する。ここで用いる本能とは、人間の「生」に関する、より野性的な欲求のことである。食事とは、本能的欲求を満たすだけの行為ではないのだ。この本能とは違う欲求のことを、我々は「感情」と呼んでいる。

 では、この味わいたいという「感情」をもう少し詳しく見てみよう。味わうとは、腹を満たすだけでない、五感を使って食事を楽しむことである。すなわち、あなたはあのラーメンを見て無意識的にラーメンの味や香り、店の空気を想像して、器に盛られた麺と具に美的センサを働かせていたのである。

 あなたのその想像したイメージに深く目を向けてほしい。その麺の食感、スープのうまみ、ラーメン屋の喧騒。または、こってり過ぎたり、砂をかんだりする嫌な感覚。そのイメージに覚えはないか。また、一度もラーメンを食べたことも、見たこともない人に、あなたのようなおいしい想像をすることが叶うだろうか。そう、想像とはあなたの過去の経験からいくつかの共通点を見つけ、経験から五感の、その時の感情の要素を引き出してきて作られた現実の虚構なのである。

 このように、入力から出力に至る経路では、本能と感情という二つの要素が絡んでいるのだ。

 ここで、この感情も突き詰めていけば本能に行き当たるだろう、この二つは実際は一緒のものだということもできるかもしれない。しかし、十分に本能から思考の手順として離れている感情は、もはや本能と同じものとは言えないだろう。なぜなら、本能とは生にかかわるものであり、その決断は素早く、絶対的なものでなくてはいけないが、感情はそこに個人の経験がいくつも絡むことによって人それぞれに特有の、複雑で導くことに時間のかかるものになっている。

 この文章では人の思考はほぼ普遍的な、すなわち自分の感覚を他人にあてはめやすい本能と、経験に左右される、相手の事情を鑑みなければ判断の難しい感情とによって成立していることを示した。この感情こそが人間の社会を、食物連鎖よりも圧倒的に複雑で面倒なものにしている。この社会を素晴らしい、美しいと感じるか、面倒くさい、うっとうしいと感じるかはあなたの感情次第である。しかし、こうやって社会を単純化し、分解することで、あなたの感じているうやむやな違和感は解消できるかもしれない。

方針

 このブログの開始当初の方針を示しておこうと思う。

 ブログを始めたきっかけは主に二つ。一つ目は文章を書きたい欲が高まり、とにかく何か書きたかったということ。二つ目は自分の思考の整理をして、形あるものに残しておきたかったということだ。

 題材は主に日々考えたことやネットで拾った内容の批評、書評になる予定だ。ブログという媒体で文章を書くからには、読者の頭の隅っこにしばらくは居座れるような独自の面白い情報や観点をわかりやすく記せるように努めたい。

始点

 あの日、白蛇を見た。

 多分小学1、2年生の時だったはずだ。曾祖父の墓参りへ行った帰りに丈の低い草むらの中に見つけたが、すぐに這って逃げてしまった。珍しいのではあろうが、若緑の中に白いのがほっそりと居たので、見つけるのはそう難しいことではなかった。

 こう書いてはいるものの、十数年前の、しかも幼いころの記憶なので本当に見たのかは定かではない。しかし、その光景は色鮮やかに、はっきりと思い出すことができる。

 今日から私は、そんな幻の白蛇の名を借りて文章を書いてみようと思う。