白蛇のとおりみち

来た道が消えないように、少し抵抗してみる

ラーメンと思考論

 世界をだれが作ったのかは誰にもわからないが、社会を作っているのは確かにヒトである。よって社会事象を分析するにあたって、ヒトの思考パターンを把握することは必須だ。ここでいう思考パターンとは、人間の判断に共通して言える、外部から情報を受け取ってから結果や行動を導き出すまでのプロセスのことである。

 なぜこれが最初であるのかというと、パターンを理解していなければものの構造を理解するのは難しいからである。料理をするのに手順を立て物質を理解するのに原子を見つめるように、ものを調べるときの基本は分解である。一つの事象を分解して要素に分けることによって、考えが詰め切れていなかったり問題があったりする部分を絞り込むことができる。いわば、効率的に分析を進めるために設計図を手探りで書き出すのである。

 

 

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 この写真を見てほしい。飯テロだと感じる方もいるだろうが、私自身このラーメンの味を思い出し、腹を空かせている。なぜこの写真を選んだのだろうか。ちなみにこれは京都市山科区麺屋 裕東西線東野駅から南へ300m)の魚介系のラーメンである。色鮮やかなこのラーメンはあっさりとした磯味がとても心地よかった。さらに、口安めに飲む水がうまい。地元の水を使っていて、素人でもわかるこの水の味の違いがラーメンを邪魔せず、引き立て役としてしっかり務めを果たしていた。

 この文までで何人が離脱しただろう。しかし、決して本題から離れたわけではない。以上のように感じたことから、思考の分解を行ってみよう。ここで自分に対する「入力」の役目を果たしたのはラーメンの写真である。また「出力」された情報は、「飯テロ」、「おいしかった」、「ラーメン・水の情報」などである。

 ここでは飯テロに注目してみる。まず、飯テロとは読み手の腹が減っているときに(ラーメン好きにとっては空腹は関係ないかもしれないが)おこる、このラーメンを食べたいという欲求である。これには、食欲を満たしたいという本能的な要素と、ラーメンを味わいたいという、本能とは別の要素が存在する。ここで用いる本能とは、人間の「生」に関する、より野性的な欲求のことである。食事とは、本能的欲求を満たすだけの行為ではないのだ。この本能とは違う欲求のことを、我々は「感情」と呼んでいる。

 では、この味わいたいという「感情」をもう少し詳しく見てみよう。味わうとは、腹を満たすだけでない、五感を使って食事を楽しむことである。すなわち、あなたはあのラーメンを見て無意識的にラーメンの味や香り、店の空気を想像して、器に盛られた麺と具に美的センサを働かせていたのである。

 あなたのその想像したイメージに深く目を向けてほしい。その麺の食感、スープのうまみ、ラーメン屋の喧騒。または、こってり過ぎたり、砂をかんだりする嫌な感覚。そのイメージに覚えはないか。また、一度もラーメンを食べたことも、見たこともない人に、あなたのようなおいしい想像をすることが叶うだろうか。そう、想像とはあなたの過去の経験からいくつかの共通点を見つけ、経験から五感の、その時の感情の要素を引き出してきて作られた現実の虚構なのである。

 このように、入力から出力に至る経路では、本能と感情という二つの要素が絡んでいるのだ。

 ここで、この感情も突き詰めていけば本能に行き当たるだろう、この二つは実際は一緒のものだということもできるかもしれない。しかし、十分に本能から思考の手順として離れている感情は、もはや本能と同じものとは言えないだろう。なぜなら、本能とは生にかかわるものであり、その決断は素早く、絶対的なものでなくてはいけないが、感情はそこに個人の経験がいくつも絡むことによって人それぞれに特有の、複雑で導くことに時間のかかるものになっている。

 この文章では人の思考はほぼ普遍的な、すなわち自分の感覚を他人にあてはめやすい本能と、経験に左右される、相手の事情を鑑みなければ判断の難しい感情とによって成立していることを示した。この感情こそが人間の社会を、食物連鎖よりも圧倒的に複雑で面倒なものにしている。この社会を素晴らしい、美しいと感じるか、面倒くさい、うっとうしいと感じるかはあなたの感情次第である。しかし、こうやって社会を単純化し、分解することで、あなたの感じているうやむやな違和感は解消できるかもしれない。